第292話 仏性その百一 趙州従諗禅師の回答

 「趙州いはく、「」。このどうをきゝて、習学しゅうがくすべき方路ほうろあり。仏性の自称する無も恁麼なるべし。狗子の自称する無も恁麼道いんもどうなるべし。傍観者ぼうかんしゃ喚作かんその無も恁麼道なるべし。その無わづかに消石しょうしゃくの日あるべし」。

 趙州従諗禅師が言うことには「無」である。この言葉を聞いて学ぶ方向、方法がある。仏性が自称するならばその無もこのようなものであるだろう。犬が自称するならばその無もこのようなものであるだろう。傍らから見ている者が言うとしたらその無もこのようなものであるだろう。その無は石も石ではなくして消してしまうようなこともわずかだがあるだろう。

 趙州従諗禅師は無と答えた。この無は恁麼つまりこのようなものとしか言いようがないものだと道元禅師は解説されているのだと思っている。

 有と対立する無ではない。無としか言い様のないものだ。有無を超越したものとしての無だ。

 仏性の無、犬の無、仏性でも犬でもない傍らの人、あるいは趙州従諗禅師と質問した僧ではない傍らの人の無も恁麼、このようなものとしか言いようがないものなのだろう。

 そう考えると、石も石という固定的概念を超越して無としか言い様のないものとなることもあり得るということだと思っている。

 理屈で説明しようとするとうまくいかない。私の能力の限界だ。ただ坐禅すると、恁麼、このようなものとして身心で受け止めることができる。

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