第290話 仏性その九十九 依倚不依倚

 「このゆゑに、半物全物はんもつぜんもつ、これ不依倚ふえいなり。百千物、不依倚なり。百千時、不依倚なり。このゆゑにいはく、籮籠らろう一枚、時中十二。依倚不依倚えいふえい如葛藤依樹にょかっとうえじゅ天中及全天てんちゅうぎゅうぜんてん後頭未有語こうとうみゆうご(籮籠は一枚、時中は十二。依倚も不依倚も、葛藤の樹に依るが如し。天中と全天と、後頭未だ語あらず)なり」。

 そういうことであるから、半分であろうが全部であろうが、寄りかかってはいない。百、千すべてのものが寄りかかってはいない。百、千すべての時間において寄りかかってはいない。籮籠(籮は漁網、籠は鳥籠)一枚が覆いかぶさっていてそれはいつでもである。寄りかかっているのも寄りかかっていないのもあり、それは葛や藤が樹に絡まっているようなものである。天の真ん中と天すべてということになれば、もう後は言う言葉はない。

 仏教はこの世界、大宇宙をありのままに捉える。だから一見矛盾するような表現が出てくる。

 ここでは前半ですべてのものは不依倚、寄りかかっていないと言っているが、その次には籮籠で覆われている、何ものかに拘束されていると言う。そして依倚不依倚というがそれは葛や藤が樹に絡まっているようなものだと言う。

 この世界は、大宇宙は単純なものではない。人間は色々なものに拘束されているという一面は現実にある。しかしそうだとしてもそのありのままの現実の中で、一人生きていかなければならない。依倚不依倚ということを超越して生きている現実があるのだ。

 葛や藤は別の樹に絡まって成長する。その意味では依倚、寄りかかっていると言える。しかし一方で葛は葛として独立しており、藤は藤として独立して存在しているのも事実だ。この大宇宙の中で、天中、全天の下でありのままの真実・真理が展開されている。そのことについて、これ以上何か言葉を足す必要はない。

 坐禅するとこのところは全身心で感じることができる。我々は独りだけで生きていくことはできない。しかし自分の人生は自分で生きるしかない。そのありのままのことを身心で受け止めることができるのだ。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る