第285話 仏性その九十四 修行=悟り

 「草鞋銭なにとしてか管得かんてする。行脚あんぎゃの年月にいくばくの草鞋をか踏破とうはしきたれるとなり。いまいふべし、「若不還銭にゃくふげんせん未著草鞋みじゃそうあいし銭を還さずは、未だ草鞋をかじ」。またいふべし、「両三䩫りょう」。この道得どうてなるべし、この宗旨そうしなるべし」。

 (携帯用の水の代金は放っておくが)草鞋の代金は何故問題にするのか。仏道修行のための行脚の年月の中でどのくらいの草鞋を磨り減らし破ったかということである。今私(道元禅師)が言ってみよう。「もし代金が返されないなら、草鞋を履くことはない」。また言おう「二、三足だ」。このように言えることであり、これが大切なところである。

 草鞋代金は修行つまり坐禅の結果、草鞋を踏破するとは修行する坐禅するということだと思っている。

 修証一如という。修行の結果と修行は一つのことだということ。悟りという言葉は好きではないが、修行と悟りは別物ではない。坐禅した瞬間が悟りなのだ。坐禅した瞬間真実・真理と一体となるのだ。

 草鞋代が帰ってこないつまり悟りがないということは、まだ修行、坐禅していないのだ。だから未著草鞋なのだ。

 また坐禅して真実・真理と一体となっているのであれば、「まあ二、三足ですな」と軽くいなしてもいい。

 ここは、そういうことではないかと思っている。

 修行、坐禅をずっと続けてその結果、真実・真理に至るのではない。坐禅した瞬間真実・真理と一体となるのだ。修証一如なのだ。

 難行苦行の末悟るのではない。坐禅さえすればそれが悟りだ。

 坐禅しましょう。

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