第284話 仏性その九十三 水の代金草鞋の代金

 「南泉いはく、「漿水銭且致しょうしせんっっしゃち草鞋銭教什麼人還そうあいせんきょうしもじんげん」。いはゆるは、「こんづのあたひはしばらくおく、草鞋のあたひはたれをしてかかへさしめん」となり。この道取の意旨、ひさしく生々しょうじょうをつくして参究すべし。漿水銭いかなればかしばらく不管なる、留心勤学りゅうしんきんがくすべし。」

 南泉禅師が言うことには、「漿水銭且致、草鞋銭教什麼人還」である。この言うことは「こんづ(携帯用の水)の代金のことはしばらく置いておくとして 

草鞋の代金は誰から返してもらったらよいのか」ということである。この言葉の意味するところを長い時間をかけて生きている間ずっと考え究めようとしなければいけない。携帯用の水の代金はどうしてしばらく放っておくのか、心を留めて一生懸命に学ばなければいけない。

 この箇所は次の草鞋代のことを解説されている箇所と合わせて読まないといけないのだけれど、字数の関係と私の能力の関係でここで切っている。

 漿水、こんづというのは煮沸した携帯用の水のことだそうだ(岩波文庫水野弥穂子氏脚注)。

 正直私には、携帯用の水の代金は放っておいてよいが草鞋代は問題にするのか明確にはわからない。

 わからないなりに書いてみる。

 南泉禅師の言葉は諧謔を含んだものじゃなかろうか。僧が修行のためあちこちを修行のために歩く、真の師を求めて訪ね歩くときには、携帯用の水も草鞋の水も必需品だろう。しかしここでは携帯用の水は置いておくとして草鞋銭は誰から返してもらえばいいのかな?とちょっと笑いを含んだ言葉なのではないだろうか。水の代金は勘弁してやるが草鞋代はどうするのか?と笑いを含んで問うているのではないだろうか。

 また水は飲んでしまったらどれだけ飲んだか後でははっきりわかりにくいが、草鞋なら何足とわかりやすいということもあるかもしれない。

 また水は生きるためには飲まない訳にはいかないが、草鞋は仏道修行のためという意思を持って履くものということもあるかもしれない。

 今回だけではよくわからないと思うけれど次回と合わせて読んでいただければ少しわかっていただけるかもしれない。

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