第283話 仏性その九十二 牛がもうもうと鳴く

 「長老見処たとひ長老なりとも、長老見処たとひ黄檗なりとも、道取するには「不敢」なるべし。一頭水牯牛出来道吽吽いちょうすいくにゅうしゅつらいどううんうん(一頭の水牯牛出で来たりて吽吽とふ)なるべし。かくのごとく道取するは道取なり。道取する宗旨さらに又道取なる道取、こゝろみて道取してみるべし」。

 長老が見るところはたとえ長老が見るのだとしても、長老が見るところは黄蘗が見るのだとしても、言うとすれば不敢となる。一頭の水牯牛が道に出てきてもうもうと鳴いているということである。このように言うことが真実・真理を言い得たということである。言うことの大切な意味をさらに次々と言うことを試して言ってみるがよい。

 水牯牛とは、岩波文庫の水野弥穂子氏の脚注によると中国南方の水辺に飼われる牛のことだそうだ。

 真実・真理はありのままに存在する。大宇宙のありのままの姿が真実・真理だ。それを見るときには長老であるとか、黄蘗であるとかそんなものは意味がない。真実・真理は絶対的な普遍的なものであるから、誰々というような個人の問題などは超越してしまう。

 真実・真理は言葉では言い表せないから、言うとすれば不敢とでも言うしかない。そして真実・真理は特別な神秘的なものではない。水辺で牛がもうもう鳴いているようなごく普通のことが真実・真理なのだ。

 今の世の中、他人が言わないようなことを言おう、自分はわかってるぞということを示したくて言葉を吐き散らかす人間で溢れている。私が見るに、どれもこれも事実の断片、欠片をことさら大仰に取り上げて得意満面になっているとしか見えない。不敢と言えるような人間はいないものだろうか。もっともそれじゃ注目されないから誰も取り上げないだろうが。そういうところが現代の欠陥であるとしみじみ思う。

 道元禅師は解説され、仏教を学ぶ人間達に、どのように言ったらよいか試してみよとおっしゃっている。

 私には言ってみるだけの力量はない。せめて毎日坐禅し正法眼蔵を読むことだけは続けていきたいと思っている。

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