第282話 仏性その九十一 坐禅の境地、不敢

 「黄蘗いはく、「不敢」。このごんは、宋土に、おのれにある能を問取せらるるには、能を能といはんとても、不敢といふなり。しかあれば不敢の道は不敢にあらず。この道得どうてはこの道取なること、はかるべきにあらず」。

 黄檗禅師が言った「不敢」。この言葉は、宋の国で自分にある能力について問われたときには、自分の能力について能力があるとしても不敢と言うのである。そういうことであるから、不敢という言葉はしない、できないということではない。このように言ったこと(不敢と言ったこと)は、こういうことを言ったのだというように推し測れるものではない。

 黄檗禅師は南泉禅師が「お前さんの答えは長老の見るところではないか」という質問に対して「不敢」と言った。

 大宇宙の真実・真理は言葉では言い表せない。坐禅して身心で受け止めるしかない。であるから、「わかった」「自分は理解している」と言葉で言うことなどできないのだ。真実・真理はあるけれど、これこれと言葉にすることはできない。敢えて言うならば、不敢ということになるのだろう。

 ということは不敢を文字通り不敢と受け取ってはいけない。これは坐禅の境地、大宇宙と一体となった身心の状態を言っているのだ。だから「こういうことです」と推し測ることなどできないのだ。坐禅して身心で受け止めるしかないのだ。坐禅は言葉で言い表せる能力など超越しているのである。

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