第281話 仏性その九十 自分の殻を壊す

 「「莫便是長老見処麼もべんしちょうろうけんじょまといふは、「これを見処とはいふまじや」といふがごとし。「長老見処麼」と道取すとも、自己なるべしと回頭すべからず。自己に的当なりとも、黄蘗にあらず。黄蘗かならずしも自己のみにあらず、長老見処は露回々ろういういなるがゆゑに」」

 「莫便是長老見処麼(これは長老の見るところではないか)」というのは「これを仏性を見るところというのではないか」と言うのと同じようなものである。「長老見処麼(長老の見るところ」と言ったとしても、それは自分のことであるなどと考えを巡らせてはいけない。自分であることが当たっているとしても、(自分が)黄蘗であるということはない。黄蘗は必ずしも自分だけであるということはない。長老の見るところは目の前に明らかに現れているからである。

 たとえ黄蘗禅師と同じ境地になったとしても、「自分は、自分は」という「自分」に囚われてはいけないということが言われているのだと思う。

 この世界は目の前にありのままにひろがっている。このありのままの世界、大宇宙を前にして、自分というちっぽけなものに固執してはいけない。

 坐禅して大宇宙と一体となったとき、大宇宙はありのままの姿を現してくる。「露回々」である。ちっぽけな自分という殻を坐禅して打ち壊さなければいけない。

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