第278話 仏性その八十七 何とも言いようがない

 「此理如何」と道取するなり。たとへば、「明見仏性はたれが所作なるぞ」と道取せんもおなじかるべし。「仏性等学、明見仏性、此理如何」と道取せんも道得どうてなり」。

 (明見仏性の状態のところに定慧等学があるというのは大宇宙の真実・真理であるから)「此理如何」此の理由はなんとも言いようがないが真実・真理である、「如何」としか言えないのである。たとえば、「明見仏性は誰がやったことのなのか(誰とも言いようがない)」と言うのと同じであろう。仏性等学=明見仏性=此理如何と言うことも真実・真理を言い得ているのである。

 此理如何を「この理由はいかなるものか」と読むとわからなくなる。此理如何しりしゅおと読み下して此理=如何と読むのだと思っている。如何とはなんとも言いようがないものということだろう。真実・真理は存在する。しかし、こういうものですと示すことはできない。如何としか言いようがないのだ。明見仏性というのは確かに存在する。坐禅の境地だと私は思っている。坐禅していると、自分というものが不思議に感じられることがある。普段は自分というものがある、と思っているが、手を組み足を組み腰骨を立ててじーっと坐っていると、今ここにいるのは誰とも言いようがない何ものかだと感じることがある。人間は意識の中で「自分は、自分は」と思い定めているけれど、その自分は宇宙の一部、様々な要素が依り集まったものに過ぎないということが実感される。たれが所作なるぞである。

 仏性等学も明見仏性も此理如何も坐禅の境地であり、これらは一体なのである。

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