第277話 仏性その八十六 自分の外側に仏性はない

 「いはゆる「定慧等学じょうえとうがく」の宗旨そうしは、定学じょうがく慧学えがくをさへざれば、等学するところに明見仏性みょうけんぶっしょうのあるにはあらず、明見仏性のところに定慧等学の学あるなり」。

 定慧等学ということの重要なところは、定(身心のバランス)を学ぶことは、慧(身心がバランスした時の智慧)を学ぶことの妨げにはならないから等しく学ぶところに明見仏性(仏性が明らかに現れている)があるのだということではない。明見仏性となっているところに定慧等学、定を学び、慧を学ぶことがあるのだ。

 ここはまさに坐禅の境地そのものだと考える。坐禅することによって身心が均衡・安定、バランスする。人間本来の面目になる。その時、仏性そのものに身心がなる。明見仏性だ。この状態で初めて定を学び、慧を学ぶことができる。

 定を学び、慧を学ぶことで明見仏性にたどり着くのではない。

 自分の外側に仏性があるのではない。坐禅した身心が仏性なのだ。外側に求めるものではない。

 学んで自分の外側に仏性を求めるというのは間違いだ。坐禅して真実・真理と一体となったとき本来の自己である仏性が現れる。その状態となって初めてきちんと学ぶことができるようになるのだ。

 我々は本来仏性そのものなのだ。坐禅してそれを確認しましょう。

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