第276話 仏性その八十五 禅問答

 「南泉云、「莫便是長老見処麼もべんしちょうろうけんじょま(便すなわち)是れ長老の見処なることなきや」。

 黄蘗曰、「不敢ふかん」。

 南泉云、「漿水銭且致しょうすいせんしゃち草鞋銭教什麼人還そうあいせんきょうしもじんげん(漿水銭はしばらく、草鞋銭は什麼人なにびとをしてか還さしめん)」。

 黄蘗便休べんきゅう(黄蘗便すなわち休す)。」

 南泉禅師が言った「お前さん(黄蘗禅師)の言ったことは長老の見る処(意見、考え)ではないのか」

 黄蘗禅師は言った。「敢えて何も言いますまい」

 南泉禅師が言った。「漿水(僧侶が遊行などで持ち運ぶ水)の代金はしばらく放っておくとして、草鞋の代金返還誰から返してもらえばいいのか」

 黄蘗禅師は問答をやめた。

 ここを読むと、いわゆる禅問答という言葉が思い浮かぶ人が多いのではないか。なんだか訳のわからんことを言い合って、「これが悟りじゃ」みたいなことになるようなものに感じるのではなかろうか。

 この後、道元禅師が詳しく解説をされる。

 ここでは私なりの考えを書いてみる。

 黄蘗禅師の答えに対し南泉禅師は、その答えは長く修行した優れた人の意見ではないかと黄蘗禅師に言う。

 黄蘗禅師の不敢という言葉は、敢えて答えませんということらしい。水野弥穂子氏は「どういたしまして」と訳されておられる。「自分はわかっている」とでしゃばって自慢するようなことはしないということのようだ。

 黄蘗禅師が不敢としか言わなかったので南泉禅師は、ちゃんと答えないなら、修行のため真実・真理を求めて旅をする時の携帯の飲み水の代金はともかく草鞋の代金は返してもらわないと、と言う。答えないのは修行が十分ではないから飲み水や草鞋の金を返せと言うが、黄蘗禅師は答えずに問答をやめている。

 結局、「十二時中不依倚一物始得」で話しは尽きている。

 それをさらに南泉禅師が確認して、それに黄蘗禅師が対応しているということではないかと思う。

 

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