第275話 仏性その八十四 寄りかかるな

 「黄蘗在南泉茶堂内坐。南泉問黄蘗、「定慧等学、明見仏性。此理如何」。

(黄蘗、南泉の茶堂の内にって坐す。南泉、黄蘗に問ふ、「定慧等学じょうえとうがく明見仏性みょうけんぶっしょう。此の理如何いかん。)

 黄蘗云、「十二時中不依倚ふえい一物始得して」。

(黄蘗いはく、十二時中一物にも依倚せずして始得ならん。)

 黄蘗希運禅師が南泉普願禅師の寺内の茶堂で坐禅をしていた。南泉禅師が黄蘗禅師に質問した。「定(身心の均衡・安定)と慧(身心が均衡・安定した時に現れる智慧)を等しく学べば明らかに仏性を見る、という。この理屈はどういうことか」

 黄蘗禅師は言った。「一日中何ものにも依存することがなければ、その時初めて得ることができる」。

 定慧等学明見仏性とは坐禅している身心の状態、境地だと考えている。

 坐禅すると身心がバランスする。大宇宙に溶け込んで一体となる感覚になる。大宇宙の真実・真理を身心全体で受け止めている、というか真実・真理そのものが身心に満ちている、そう感じる。自分自身が仏性であると感得される。明見仏性、明らかに仏性がしぶんの内側に現れているのだ。

 黄蘗禅師の言葉は、人間は自分自身でしか生きられないということだろう。自分が何をするかは全て自分の責任だ。何をするかどうかは自分の中に基準がなければいけない。他人の評価、社会の評判、金銭など自分の外側に基準があっては駄目だ。そういう外側の基準に寄りかかっているとぐらぐらおろおろするだけだ。自分の中の基準、それは坐禅した身心の大宇宙の真実・真理である。仏性そのものとなった自分自身として生きて行くのだ。

 坐禅しましょう。

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