第268話 仏性その七十七 主体と客体が同一

 「且問你しゃもんにい、大潙、百丈しばらくきくべし。ほうはすなはちなきにあらず、仏性は説得せつてすやいまだしや。たとひ説得せば説著せつぢゃ罣礙けいげせん。説著あらば聞著もんぢゃと同参なるべし。」

 お前さんに質問しよう。大潙、百丈よ、質問をお聞きなさい。三宝を謗るということは無いわけではないが、仏性について説くことができたのかまだなのか。説くことができたなら、仏性が説くことも合わせて実現できているだろう。もし仏性を説くことがあるならば聞くことも同時に行われるだろう。

 私の解釈は次のようなものだ。

 ある主体が仏性(客体)を説く、つまり説得。今度は客体であった仏性が主体となって仏性を説く、説著。

 主体として説くことがあれば(能動態)、聞くこともある(受動態)。

 つまり、仏性を説くことを、主体と客体、能動と受動という2つの側面で捉えてはいるのではないだろうか。

 説いている人と仏性は一体だから、仏性を説くことは仏性が説くことと同じである。説いた瞬間は聞く瞬間だ。説くことと聞くことは別に行われるのではない。主体=客体。能動と受動は同時に発生する。

 2つの側面から衆生と仏性が同じものであると示しているのではないか。そう考えている。仏教は多面的だ。単純な論理ではない。この複雑怪奇な現実に対処するとき、単純な思考では対応できない。ここに仏教の価値がある。

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