第267話 仏性その七十六 言葉の限界

 「このゆゑに百丈いはく、「説衆生有仏性、亦謗仏法僧。説衆生無仏性、亦謗仏法僧(衆生に仏性有りと説くもまた仏法僧を謗ず。衆生に仏性無しと説くもまた仏法僧をほうず。)」しかあればすなはち、有仏性といひ無仏性といふ、ともにほうとなる。謗となるといふとも、道取せざるべきにはあらず。」

 このため(衆生と仏性を別々に捉えるのは間違いであるため)、百丈懐海ひゃくじょうえかい禅師は「衆生に仏性があると説くこともまた仏法僧の三宝をそしることになり、衆生に仏性が無いと説くこともまた仏法僧の三宝を謗ることになる。そういうことであるから有仏性と言っても、無仏性と言っても、共に謗ることになる。謗ることになるとしても言葉にしなくてよいということではない。」」

 この百丈懐海禅師の言葉は仏教に触れる上でとても重要だと思っている。

 仏教は大宇宙の真実・真理を体得し大宇宙の真実・真理に従って生きていくということの教えではないかと思っている。

 大宇宙の真実・真理は絶対的に存在する。しかしそれは言葉では言い表せない。言葉では不可能だ。だから坐禅して身心で受けとめるしかないのだけれど、そう言ってしまっては仏教をひろめることはできない。なので、祖師方、道元禅師は苦心惨憺されて、何とか言葉で伝えようとされてきた。

 正法眼蔵が難解であるといわれることの最大の要因は、このことにあると思っている。

 私のような者を引合いに出すのはとんでもないことだけれど、この文章を書いていて、坐禅の境地として理解できるのだけれど、言葉にした途端何か違ってしまうのだ。

 正法眼蔵は、言葉で伝えようとされた道元禅師の偉大なものだと改めて思う。

 

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