第260話 仏性その六十九 衆生と仏性

 「しかあれども、一切衆生無仏性のみ仏道に長なり。塩官有仏性の道、たとひ古仏とともに一隻いっしゃくの手をいだすににたりとも、なほこれ一条拄杖両人舁いちじょうしゅじょうりょうにんよなるべし」。

 そうではあるけれども、一切衆生無仏性のみが仏道において優れている。塩官斉安禅師の有仏性の言葉は例えば釈尊と一緒に片手を出しているようであるけれども、やはりこれは一本の杖を二人で担ぐというものであろう。

 この後も道元禅師の解説は続くが、ここについての私の考えを書いてみる。

 一切衆生無仏性が一切衆生有仏性より優れているという。一切衆生有仏性は二人で一本の杖を担いでいるようなものだという。

 思うに、衆生と仏性がそれぞれ有ると考えてはいけない、ということではないか。衆生と仏性というものが別々に有ると考えてはいけない。衆生と仏性が別々にあると考えると、衆生と仏性の二つが一本の杖を二つで担ぐようになってしまう。それではいけないのだ。

 衆生=仏性であるから衆生の外側に仏性があるのではない。衆生と仏性は別々にあるのではない。そういうことではないかと思う。

 一切衆生の中には自分もいる。自分に仏性があると自分と仏性を別々に考えてはいけない。そういうことだと思っている。

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