第259話 仏性その六十八 有仏性、無仏性

 「釈尊説道は「一切衆生悉有仏性」なり、大潙の説道は一切衆生無仏性なり。有無の言理、はるかにことなるべし、道得どうて当不とうふ、うたがひぬべし」。

 釈尊がおっしゃったのは「一切衆生悉有仏性」であり、大潙(潙山霊祐いさんれいゆう)禅師の言葉は「一切衆生無仏性」である。有と無では言葉での理屈は大きく異なっているだろう。二つの言葉が意味することが当たっているのかそうではないのか、疑って当然である。

 釈尊は一切衆生悉有仏性とおっしゃった。一切衆生(生きとし生けるもの)は悉有(悉くあるもの、宇宙の全存在)であり仏の性質を持っている、つまり一切衆生=悉有=仏性と読むのだと思っている。

 ただ、一切衆生は悉く仏性有りと読むこともできる。この方が一般的なのかもしれない。

 そうすると潙山霊祐禅師の一切衆生無仏性、一切衆生は仏性無しは釈尊の言葉と相反することになる。

 これをどう捉え、どう考えればいいのか。この後、話が展開されていく。

 ちょっと脱線するが、無ということを仏教辞典などで調べると難しいことがたくさん書いてある。学門として学んでいない私にはさっぱり皆目理解できない。

 私が思っているのは、有とか無というのは人間の頭の中の観念に過ぎないのではないかということだ。有とか無とか頭の中でこねくりまわしたところで、現実はありのままに厳然と存在している。それは有るとか無いとかの観念を超越したものなのだ。

 今の世の中を見ていると、観念論はもうたくさんだ、現実をありのままに見ろ!そう叫びたくなる。叫ばないけどね。うんざり眺めている。

 


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