第256話 仏性その六十五 言葉で言い表すということ

 「国師たとひ会得ういて道得どうて承当じょうとうせずとも、承当の期なきにあらず。今日の道得、いたづらに宗旨そうしなきにあらず。」

 斉安国師がたとえ理解したところを言葉でまさにそのまま言い表せなかったとしても、言い表すことができる時がない訳ではない。今日の言葉が無駄に、重要な意味がないということではない。

 仏教は大宇宙の真実・真理に従って生きることを説いていると思っている。そして真実・真理は間違いなく絶対の存在としてあるけれども、それを言葉で表現することは不可能だとも思っている。だから坐禅して身心で獲得するしかないのだ。

 しかしそう言って切り捨ててしまっては、人々に広く理解してもらえない。そこで祖師方、道元禅師は言葉を使って何とか真実・真理を伝えようと苦心惨憺してこられた。真実・真理を完全に言い表すことは不可能だけれど、言い表そうと努力することに価値があるのだ。それが不十分だとしても意味があるし、いつかより良く言い表すことができるかもしれないのだ。

 坐禅の境地は言葉で言い表すことは困難だ。身心で感じるしかない。しかし、その境地を何とか言葉で伝えようとすることは貴いことなのだ。そう思っている。

 

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