第251話 仏性その六十 有、無

 「無心者おなじく衆生なるべし、衆生是心なるがゆゑに。しかあれば、心みなこれ衆生なり、衆生みなこれ有仏性なり。草木国土これ心なり、心なるがゆゑに衆生なり、衆生なるがゆゑに有仏性なり。日月星辰これ心なり、心なるがゆゑに衆生なり、衆生なるがゆゑに有仏性なり。国師の道取する有仏性、それかくのごとし。」

 無心のもの、無心者も同じく衆生である。衆生=心であるからである。そういうことであるから、心はみな衆生であり、衆生はみな有仏性である。太陽も月も星も衆生であり、衆生であるから有仏性である。西安国師の言うところの有仏性とは今述べたようなことである。

 ここで無心者も衆生である、と展開される。

 無心者とは何か?有るとか無いとかいうのは人間の脳味噌で考えたものに過ぎない。有るのか、無いのかとかつべこべ言う必要はない。大宇宙は絶対の存在なのだ。となると有、無と区分する必要はない。絶対の存在としてありのままに受け入れればいい。

 では心とは何か?大宇宙の全てが心なのかもしれない。

 衆生とは大宇宙の全ての存在のことなのかもしれない。

 とすれば、有るとか無いとかを超越した大宇宙全ての存在である心=衆生と言える。

 一切衆生=悉有=仏性であるから心=衆生=仏性となる。

 有仏性の有も上に書いたように有、無を超越した有と受け止めてよいと思っている。仏性、仏としての性質は有、無を超越したものだろう。だから有仏性は有、仏性と並べて受けとればいいのではないかと思う。仏性が有ると読むと理解できないと考える。この先には無仏性についての道元禅師の解説があるのだ。

 いずれにしても、有るとか無いとかを超越した大宇宙の全存在は心であり衆生であり仏性なのだ。


 

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