第246話 仏性その五十五 真の仏教

 「すなはち知客と予と、舍利殿しゃりでんおよび六殊勝地ろくしゅしょうち等にいたるあひだ、数番挙揚すばんこようすれども、疑著ぎじゃするにもおよばず。おのづから下語あぎょする僧侶そうりょも、おほく都不是とふぜなり。予いはく、堂頭どうちょうにとふてみん。ときに堂頭は大光和尚だいこうおしょうなり。知客いはく、「他無鼻孔、対不得ついふて如何得知しゅおてち」(他は鼻孔無し、こたへ得じ。如何いかでか知ることを得ん)。ゆゑに光老にとはず。恁麼道取いんもどうしゅすれども、桂兄けいひんういすべからず。聞説もんせつする皮袋も道取せるなし。」

 知客と自分が舎利殿や六つの名所を巡るあいだ、何回かこの問題を取り上げてみたけれど、疑う様子はなかった。時々何か言う僧侶も皆まったくわかっていない。自分は住職に質問してみようと言った。その時の住職は大光和尚だった。知客は言った。「彼(大光和尚)は肝心なことはわかっていない。どうして答えることができようか。知ることはできまい」。だから大光和尚には質問しなかった。このように言っているけれど成桂知客もわかっていないのだ。この話を聞いていた人間(皮袋)も言い得る者はいなかった。

 道元禅師は天童如浄禅師から法を受け継いだ。しかし宋の国でも真の仏教がわかっているものが少ないということはこのエピソードからもわかる。

 阿育王山広利禅寺というのは立派な寺だったのだろう。しかしそこの要職にある僧侶も真の仏教はわかっていなかった。

 今日本にも立派な寺はたくさんあるようだ。国宝になっていたり、観光名所になっていたりする。けれど、真の仏教が今日本にあるのだろうか?

 日本で今起こっていることを見ていると、真の仏教があるのか疑問だ。仏教界は何をしているのだろう?

 世界各地で起こっていることをみれば、真実・真理などどこにあるのだろうとしか思えない。

 人類を救えるのは坐禅であり、正法眼蔵なのだ。

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