第240話 仏性その八十四 笑い死ぬ

 「すでに数百歳すはくさいの霜華も開落して、人眼にんげん金屑きんせつをなさんとすれども、あやまるといふ人なし。あはれむべし、万事の蹉跎さたたることかくのごときなる。もし身現円月相は一輪相なりと会取ういしゅせば、真箇の画餅わひん一枚なり。弄他ろうたせん、笑也笑殺人しょうやしょうせつじんなるべし。」

 すでに数百年の年月が経っているが、(身現円月相を丸く円を描いているというのは)人間の眼に金の削り屑が入ったよう間違ったことであるのに、それを誤りであるという人がいない。憐れなことである。万事を間違ってしまってきたことかくの如くである。もし身現円月相は一輪相だと理解しているならば、そんなことをしているのは、まさに本当の絵に描いた餅である。あまりにおかしくて笑い死にしてしまうようなことである。

 道元禅師は痛烈だ。

 龍樹尊者が坐禅している姿を、まあるく円を描いてよしとしているのを痛烈に批判しておられる。絵に描いた餅そのものだと。

 坐禅そのものが尊いのだ。坐禅は大宇宙の真実・真理と一体となるものだ。その姿も尊い。完璧な何も欠けているところがないものだ。だから円月相と表現するのであって、満月が現れる訳ではない。そんなことがある訳がない。

 何回も書くが、坐禅した身心でないと正法眼蔵を読むことはできない。ここも坐禅しているならば納得できるが、坐禅していなければよくわからないだろう。

 これも繰り返しであるけれど、仏教は神秘的なものではない。龍樹尊者が坐禅したら満月に変身したなどということはない。ただ坐禅しているだけである。しかし坐禅には大宇宙の真実・真理と一体となるという力がある。それを文字で表現した場合に「身現円月相」となるということだ。

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