第239話 仏性その八十三 絵に描いた月

 「しかあるに、龍樹・提婆師資ししよりのち、三国の諸方にある前代後代ぜんだいこうだい、まゝに仏学する人物、いまだ龍樹・提婆のごとく道取せず。いくばくの経師論師きょうじろんじ等か、仏祖のどう蹉過さこする。大宋国むかしよりこの因縁をせんとするに、身にし心に画し、くうに画し、壁に画することあたはず、いたづらに筆頭に画するに、法座上に如鏡にょきょうなる一輪相をして、いま龍樹の身現円月相とせり。」

 そうであるのに、龍樹尊者と迦那提婆尊者の師弟の後、インド・中国・日本にそこかしこの前代、後代の、時々に仏道を学んだ人々はいまだに龍樹尊者や迦那提婆尊者のようには言えていない。どれほどの経典を読んで議論だけしている者達が、仏祖の言葉を踏み違えているだろうか。偉大な宋の国の昔から、この龍樹尊者と迦那提婆尊者のやりとりを描こうとするのに、坐禅した身心でそれを表す、坐禅した空間で表す、(坐禅は壁に向かってするので)壁に向かって表すということができずに、無駄に絵筆をとって、法座の上に丸い鏡のような一つの輪を描いて、これが龍樹尊者の「身現円月相」であるなどとしているのだ。

 「身現円月相」とは坐禅の境地、坐禅の姿そのものなのだ。坐禅して真実・真理と一体となった身心は欠けたところのない満月のようにすべてが充足しているものなのだ。

 坐禅している身心は完璧なもの。それをここでは説かれている。

 龍樹尊者が満月のようになったとか言って、座上に円を描いて「身現円月相」だなどというのは、まさに絵に描いた月であって何の意味もない。こんなものを御大層に崇めているとしたら、滑稽であり悲惨である。

 ただひたすら坐禅していればいいのだ。

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