第237話 仏性その八十一 坐禅が全て

 「しかあれば「身現」の説仏性なる、「虚明」なり、「廓然」なり。説仏性の身現なる、「以表諸仏体」なり。いづれの一仏二仏か、この以表を仏体せざらん。仏体は身現なり、身現なる仏性あり。四大五蘊しだいごうんと道取し会取ういしゅする仏量祖量も、かへりて身現の造次ぞうじなり。」

 そういうことであるから、坐禅した身体を現すことが仏性を説くことであり、そのことは「これこれだ」とは言えないけれども明らかであり、はっきりとわかる状態である。仏性を説くことは坐禅した身体としてあるということであって、諸仏体を表しているのだ。この仏としての身体を表すことのない仏というものがあろうか。仏の身体は坐禅した身体を現すことであり、その身体を現すことが仏性なのである。この世界のあり様は四大(地・水・火・風)五蘊(色・受・想・行・識)であると言い、理解する仏祖の力量も、結局のところ坐禅した身体を現すことなのである。

 四大五蘊について。四大(地・水・火・風)はこの世界の構成要素。地=固体、水=液体、火=化学反応、風=気体。五蘊(色・受・想・行・識)とは人間のあり様。人間は物質=色でできている。受とは感覚器官で受け止めること。感覚器官で受け止めると想念が発生する。想念が発生すると身体が反応して「行」動になり、そのことを通じて意「識」が生まれる。

 坐禅することが仏性となることである。坐禅した身体は仏性である。仏とは坐禅した人間のことである。

 つまり坐禅が全てなのである。

 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る