第236話 仏性その八十 無相三昧

 「(余者はただ、仏性は眼見耳聞心識等にあらずとのみ道取するなり。)身現は仏性なりとしらざるゆゑに道取せざるなり。祖師のをしむにあらざれども、眼耳げんにふさがれて見聞することあたはざるなり。身識いまだおこらずして、了別りょうべつすることあたはざるなり。無相三昧むそうざんまい形如満月ぎょうにょまんがつなるを望見もうけん礼拝らいはいするに、「目未所覩もくしょみと」なり。「仏性之義ぶっしょうしぎ廓然虚明かくねんこめいなり。」」

 (迦那提婆尊者以外の者は、仏性は目で見たり耳で聞いたり心で感じたりするものではないとだけ言う)身体を現すことが仏性であるのだということを知らないからそう言うのだ。仏祖と言われる方々が惜しむということはないのだけれど、目や耳が塞がれて見聞きできないのである。この身で感得することがまだできていないので、はっきりとこうだとわからないのである。坐禅した身心(無相三昧)はその形は欠けているところのない満月のようであるのを遠くから見たり、礼拝しても、「目で見るところではない」ではないのである。仏性とは何かとは、具体的にこれだとは言えないけれどはっきりと感得できるものなのだ。

 我々は大宇宙の中に生きている。我々は大宇宙の一部であり、大宇宙の真実・真理のもとに生きている。本来人間は大宇宙の真実・真理と一体なのであっておかしなことはできないものなのだ。しかし、頭の中の考え、名誉、利得、習慣などに憑りつかれそれに振り回されているうちに、真実・真理を見失い、迷い、誤りを積み重ねていく。

 だから坐禅し身心をバランスさせ大宇宙の真実・真理と一体となる必要がある。本来の姿に戻る必要がある。坐禅した瞬間、仏性とは何かは身心全体で感得することができる。坐禅した身心が仏性そのものなのだ。「目未所覩もくしょみと」だが、「仏性之義ぶっしょうしぎ」は「廓然虚明かくねんこめい」なのだ。これは坐禅しなければわからない。坐禅すればわかる。

 何回も書くけれど坐禅した身心でなければ正法眼蔵は絶対に読めない。坐禅しましょう。

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