第235話 仏性その七十九 臭い皮の袋

 「迦那提婆尊者、ちなみに龍樹尊者の身現をさして衆会につげていはく、

「此是尊者、現仏性相、以示我等。何以知之。蓋以無相三昧形如満月。仏性之義、廓然虚明(此れは是れ尊者、仏性の相を現じて、以て我等に示すなり。何を以てか之れを知る。蓋し、無相三昧は形満月の如くなるを以てなり。仏性の義は、廓然として虚明)なり。」いま天上人間、大千法界だいせんほうかい流布るふせる仏法を見聞せる前後の皮袋ひたい、たれか道取せる、「身現相は仏性なり」と。大千界にはただ提婆尊者のみ道取せるなり。余者よしゃはただ、仏性は眼見耳聞心識げんけんにもんしんしき等にあらずとのみ道取するなり。」

 迦那提婆尊者は龍樹尊者がその身体を現したことを指して人々に告げて言ったことには、「龍樹尊者は仏性とはどういうものかを現して、それで我々に示している。どうしてそうだと知るのか。まさに坐禅している状態(無相三昧)はその形、満月のようであるからである。仏性とは何かは、これだと示すことはできないけれども、その存在ははっきりとしている。」今、天上界、人間の世界、大宇宙全体に流布している仏法を見たり聞いたりしている今昔の人間(皮の袋)の誰が「身体を現すことが仏性である」と言い得ただろう。この大宇宙ではただ一人迦那提婆尊者だけが言い得たのである。その他の者はただ、仏性は目で見たり耳で聞いたり心で感じたりするものではないとしか言えていないのだ。

 坐禅している状態は真実・真理と一体となっている状態であるから、何も欠けているところのない満月のようなものである。それは仏性そのものだ。仏性とは坐禅した状態と言ってもいいだろう。

 仏性を知りたければ坐禅すればいいだけだ。坐禅した身心の状態が仏性だ。神秘的、観念的なものではない。眼には見えず耳にも聞こえず心にも感じないとか訳のわからないことを言ってはいけない。

 なお道元禅師は人間のことを皮袋ひたいとか臭皮袋しゅうひたいと表現される。人間というのは一枚の皮で包まれたものだ。色んなものが詰まっているから臭い。世の中臭皮袋がくんずほぐれつ色んなことをしでかしている。坐禅して自分が臭皮袋であることをしみじみ感じましょう。

 

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