第230話 仏性その七十四 身心で感得する

 「一衆いっしゅいま円月相を望見もうけんすといへども、「目所未見もくしょみけん」なるは、説法蘊の転機なり、「現自在身」の「非声色ひしょうしき」なり。「即隠そくおん」、「即現そくげん」は、輪相の進歩退歩なり。「復於座上現自在身ぶおざじょうげんじざいしん」の正当恁麼時は、「一切衆会いっさいしゅえ唯聞法音ゆいもんほうおん」するなり、「不覩師相ふとしそう」なるなり。」

 人々は円月相を見ていたけれども、「目で見ることはなかった」のは説法の集まりがそのようにさせていたのであり、「今そこにある体」が聞いたり見たりする対象ではないということである。その姿が隠れたり、現れたりするのは、月が色々と姿を変えるようなものである。「(龍樹尊者が)その姿を再び現した」まさにその時はそこにいたすべての人が唯だ説法を聞いていたということであり、龍樹尊者の姿を見るということではないのである。

 今の世の中、画像や言葉が乱れ飛んでいる。溢れかえり飛び跳ねている。実に乱雑。実に雑然。見たり聞いたりを重視しすぎだ。

 そもそもなんで見る必要があるのか、見せる必要があるのか?言葉を発する必要があるのか、聞く必要があるのか?政治家の発言なんてその最たるもんだ。報道機関も同じだ。ネット上に溢れているものも同じ。

 何がしたいのかよくわからんことがほとんどだ。

 一旦、言葉を発するのをやめよ。動かずに止まれ。そして坐禅しろ。

 真実・真理は言葉をいくら弄しても把握することはできない。真実・真理を見ることなどできはしない。動き回ったって疲れ混乱するだけだ。人間の五感には限界がある。五感の情報を誤って解釈してしまうことが多い。

 真実・真理を見失い、刹那的に右往左往し騒いでいる。

 坐禅してこの大宇宙のありのままの姿を身心で感得せよ。五感の情報に振り回されることなく、静かに的確なものとして受け止めよ。それ以外に真実・真理に迫る方法は無い。

 

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