第229話 仏性その七十三 大宇宙の大きさになる

 「仏性の「満月まんがつ」を「形如ぎょうにょ」する「虚明こめい」ありとも、「円月相」を排列するにあらず。いはんや「用辯ようべん」も「声色しょうしき」にあらず、「身現」も色身しきしんにあらず、蘊処界うんじょかいにあらず。蘊処界に一似いちじなりといへども「以表」なり、諸仏体なり。これ説法蘊せっぽううんなり、それ「無其形むごぎょう」なり。無其形さらに「無相三昧」なるとき「身現」なり。」

 仏性が完全な形である満月の姿であることははっきりとしているが、「円月相」というような言葉が並べられている訳ではない。ましてや言葉を使った説法も耳で聞く、目で見るものではなく、身を現すと言っても肉体という物質ではなく、物の集合体でもない。物の集合体にちょっと似ているかもしれないが、何としか言いようのないものを表しているのであってこれが諸仏の表れ方なのだ。これは説法の集合であり、こういうものという形のあるものではない。こういうものという形があるものではないということを突き詰めていくと坐禅の姿(無相三昧)が現れる。

 ここも坐禅した身心の状態、坐禅の境地を説いていると考えている。

 坐禅した身心は完全なもの、満月のように欠けているところのないものだが、それを言葉で表すことはできない。こういうものという形、こういうことという言葉では表せない。そこにはすべてがあり、森羅万象がありのままの姿を現している。それは坐禅した身心で感得できるもので言語や物質を超越している。その形無し「無其形」だ。無相三昧だ。

 三昧というのはバランスが取れた安定した状態のことで坐禅した身心だと思っている。坐禅の姿勢を取った時、身心は大宇宙の真実・真理と一体となり、大宇宙と同じ大きさとなる。

 頭の中の観念や言葉や光景に囚われて現実が見えなくなってしまっている人間が多い。坐禅して大宇宙の大きさとなろう。それは特殊なことではない。人間本来の姿なのだ。本来の姿に立ち戻りましょう。

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