第227話 仏性その七十一 化身

 「愚者おもはく、尊者かりに化身けしんを現ぜるを円月相といふとおもふは、仏道を相承そうじょうせざる儻類とうるいの邪念なり。いづれのところのいづれのときか、非身の他現ならん。まさにしるべし、このとき尊者は高座せるのみなり。「身現」の儀は、いまのたれ人も坐せるがごとくありしなり。この身、これ円月相現えんがっそうえんなり。身現は方円ほうえんにあらず、有無うむにあらず、隠顕おんけんにあらず、八万四千蘊うんにあらず、たゞ身現なり。」

 愚かな者が思うことには、龍樹尊者がかりに身体を変化させて満月の姿を現したことを円月相というのだと思うのは、仏道を正統に伝えられていない者どもの間違った考え、邪念である。いったいどこのいつの時にこの身心以外の姿が現れるというのか。まさに知らなければいけない、時龍樹尊者はただ坐禅していただけなのである。この身を現すということは、今誰もが坐禅しているようにあるのだ。その坐禅している姿こそが「円月相」を現しているのである。この身現は四角だとか円だとかではない、有るとか無いとかを超越し、隠れているのでもはっきり見えるのでもない、無数の様々な要素の集まりでもない、ただこの身体が坐禅という形で現れているだけである。

 仏教は神秘的なものではない。徹底的に現実的なものだ。それは当たり前のことで、仏教は今この瞬間の現実をどう生きたらいいかを教えるものだからだ。神秘なんてものに頼っている暇はない。今この瞬間にどう行動するか。真実・真理に従って行動できるようにするのが仏教だ。

 だから龍樹尊者が満月に変身したなどということはないのだ。龍樹尊者は坐禅していただけなのだ。「尊者は高座せるのみ」だ。

 この現実世界に生きていて、この身心以外が別のものに姿を変えるなんてことがいつどこにあるというのか。「いづれのところのいづれのときか、非身の他現ならん」。

 坐禅は大宇宙の真実・真理と一体となることだからその姿は尊い。それを「円月相」と表現したまでのことだ。龍樹尊者だから尊いのではない。坐禅した瞬間誰もが尊いのだ。「いまのたれ人も坐せるがごとくありし」なのだ。

 坐禅した身心の境地は言語を超越したものだ。大宇宙の真実・真理を表現できる言語、言葉などない。だから「方円ほうえんにあらず、有無うむにあらず、隠顕おんけんにあらず、八万四千蘊うんにあらず、たゞ身現なり」なのだ。ただ坐禅しているという事実があるのみだ。

 ここは重要だと思う。仏教にかこつけて金儲けしようとする奴らは。因縁だとか業だとか成仏だとか地獄・極楽などと訳のわからないことを言って人を誑かす。

 仏教は徹底的に現実的なのだ。訳のわからない、神秘的なものではない。ここは何度でも強調したい。

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