第225話 仏性その六十九 非大非小

 「「仏性非大非小」等の道取、よのつねの凡夫二乗に例諸れいしょすることなかれ。偏枯へんこに仏性は広大ならんとのみおもへる、邪念をたくはへきたるなり。大にあらず小にあらざらん正当恁麼時しょうとういんもじの道取に罣礙けいげせられん道理、いま聴取ちんしゅするがごとく思量すべきなり。思量なる聴取を使得すてするがゆゑに。」

 「仏性非大非小」というような言葉を世の中の仏道を学んでいない人や理屈や感覚で仏道を学ぶ人たちと同じようにしてはならない。偏って頑なに仏性というものは広大なものだとだけ思っているのは邪念を蓄えてきてしまっているのである。大にあらず小にあらずというまさにその時の言葉によって捉えられた道理を今龍樹尊者の言葉を聞いたように考えなければいけない。考えることと聞くことは同じでありそれを使いこなすことだからである。

 仏性の大小について解説されている。仏性=悉有つまり大宇宙のすべての存在だから、大きいとか小さいとかいう対象ではない。大といえば限りなく大だし、小といえば無限に小だ。大にも小にも際限は無い。

 ここも坐禅した身心であれば納得のいくところだ。

 坐禅している時、大宇宙の真実・真理と一体となっている時は広大無辺な大宇宙そのものという意味では大であるし、細胞や遺伝子とかというレベルで考えれば小である。だから大とか小とか言えない。身心がまさにそういう状態になっている時には真実・真理の説法を聞くということと考えるということは一体不可分になる。

 坐禅するということはこういうことでもある。

 正法眼蔵は坐禅の中身を書いたものだと澤木興道氏は言っている。その通りだと思う。坐禅してこの境地になってみませんか。

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