第223話 仏性その六十七 言葉では無理

 「言訖輪相即隠。復居本座、而説偈言、(言ひおわるに、輪相即すなわちち隠る。また本座にして、を説いていわく、)

 身現円月相、以表諸仏体、説法無其形、用辯非声色。(身に円月相えんがっそうを現じ、以て諸仏の体をひょうす、説法其かたち無し、用辯ようべん声色しょうしきに非ず。

 しるべし、真箇の「用辯」は「声色」の即現にあらず。真箇の「説法」は「無其形むごぎょうなり。尊者かつてひろく仏性を為説いせつする、不可数量ふかすうりょうなり。いまはしばらく一隅いちぐう略挙りゃくこするなり。」

 提婆が言い終わると、龍樹尊者の輪相は見えなくなり、元の座に戻って偈を説いて言われた。身に円月相を現し、それを以て諸仏の体を表した、説法には形はなく、言葉を使ってもそれは見たり聞いたりする対象ではない。

 知らなければいけない。ほんとうの「用辯」(言葉を使って表現すること)は見たり聞いたりするというような感覚の対象ではない。ほんとうの「説法」はその形というものは無い。龍樹尊者はひろく仏性を説いた、その数は数えきれない。今ここに挙げたのはそのごく一部にすぎない。

 真実・真理は坐禅して身心で感得する、身心と一体となることでしか捉えることはできない。言葉では言い表せない。真実・真理の説法は坐禅した身心で感得することしかできない。無其形とは坐禅した身心といってもいいかもしれない。

 今の世の中言葉が溢れている。いらん言葉を吐いてひどい目に合っている人間もいる。言葉をあまりにも重要視しすぎだと感じる。言葉ではごく限られたことしか表現できない。言葉には限界がある。言葉というものは不完全なのものだ。そのことを改めて嚙みしめるべきだ。言論がいかに空虚、無力、むしろ害悪であることは、今の世の中の現実が示しているではないか。「真箇の「用辯」は「声色」の即現にあらず。真箇の「説法」は「無其形むごぎょうなり」坐禅してしみじみ身体全体で感じ取って欲しい。

 だから坐禅するしかないのだ。

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