第222話 仏性その六十六 御伽噺

 「尊者復於座上現自在身、如満月輪。一切衆会、唯聞法音、不覩師相。(尊者、また坐上に自在身を現ずること、満月輪まんがつりんの如し。一切衆会しゅえただ法音のみを聞いて、師相をず。)

 於彼衆中、有長者子迦那提婆、謂衆会曰、識此相否。(彼の衆の中に、長者子ちょうじゃし迦那提婆かなだいばといふもの有り、衆会につて曰く、此の相をるや否や。)

 衆会曰、而今我等目所未見、耳無所聞、心無所識、身無所住。(衆会曰く、而今我等いまわれら目に未だ見ざる所、耳に聞く所無く、心にる所無く、身に住する所無し。)

 提婆曰、此是尊者、現仏性相、以示我等。何以知之。蓋以無相三昧形如満月。仏性之義、廓然虚明。(此れは是れ尊者、仏性の相を現して、以て我等に示す。何を以てか之を知る。けだし、無相三昧むそうざんまい形満月かたちまんがつの如くなるを以てなり。仏性の義は廓然虚明かくねんこめいなり)」

 龍樹尊者は坐禅している姿を現してその姿は満月のようであった。そこにいたすべての人たちはただ法の音を聞くだけで龍樹尊者の姿を見ることはなかった。

 人々の中に裕福な家の出身の迦那提婆という人がいて人々に向かって言った。この龍樹尊者の姿を知っているかどうかと。

 人々は言った。今の私たちは目に観るところはなく、耳に聞くところはなく、心で知るところもなく、身でもって理解することもない。

 提婆は言った。これは龍樹尊者が仏性の相を現して我々に示しているのだ。どうしてそれを知るのか。思うに坐禅の姿(無相三昧)はその形が満月のようだからである。仏性とはなにかは大宇宙のあり様と同じで明白である。

 ここのところは坐禅という者が持つ力を示しているのだと考えている。龍樹尊者は坐禅しているだけだ。その姿が満月のようになって見ることができず法音だけが聞こえたというのは物語として語られているだけのことだ。御伽噺といってもいいかもしれない。

 坐禅する=真実・真理と一体となる=仏性そのものとなる、ということだ。そのときの身心は何も欠けたものは無い完全な状態、満月のような状態となる。この箇所は坐禅が全てを充足した完全な状態となることを示す物語だ。

 龍樹尊者が満月に変身したというような神秘的な話ではない。神秘的な内容にした方が聞く人の興味を引くからそうしているだけであって、坐禅は神秘ではない。

 後ほど道元禅師が解説をしてくださる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る