第219話 仏性その六十三 魔外の類

 「しかあれば、草木叢林そうもくそうりんの無常なる、すなはち仏性なり。人物身心にんもつしんじんの無常なる、これ仏性なり。国土山河こくどせんがの無常なる、これ仏性なるによりてなり。阿耨多羅三藐三菩提あのくたらさんみゃくさんぼだいこれ仏性なるがゆゑに無常なり、大般涅槃だいはつねはんこれ無常なるがゆゑに仏性なり。もろもろの二乗の小見および経論師きょうろんじの三蔵等は、この六祖の道を驚疑怖畏きょうぎいふすべし。もし驚疑せんことは、魔外まげの類なり。」

 そういうことであるから草や木や草むらや林が無常であること、すなわち仏性である。人間の身心は無常であり、仏性である。国土や山や河が無常であるのはこれらが仏性だからである。最高の均衡がとれた真実・真理は仏性であるから無常であり、偉大な静寂の境地は仏性であるから無常である。いろいろな二乗の立場からの小さなものの見方および経典を読んで議論して仏教を学ぼうという学者等は、「無常者仏性也」という六祖の言葉を驚き疑い畏怖するに違いない。もし驚き疑うのならば仏教の妨げとなる魔物や外道の類である。

 大宇宙のすべての存在は固定したものではない。常に変化し動いている。つまり無常である。

 つまり仏教でいう無常は情緒的なものではなく、科学的なものだ。真実・真理なのだから情緒的なものではない。科学的そのものなのだ。

 この世界の実在はすべて無常なのだ。それは最高の均衡がとれた真実・真理つまり阿耨多羅三藐三菩提、偉大な静寂の境地つまり大般涅槃も同じく無常なのだ。仏教を学ぶと何にも動揺しない安定した境地になるようなことを言うことがあるが、そんな固定したものが大宇宙に存在する訳がない。

 人間が生きている以上常に変化し、瞬間瞬間変動する状況に対応していかなければいけない。その瞬間瞬間の対応を真実・真理に基づいて行えるようになることが仏教の目指すところだ。そしてそれは坐禅した身心であれば可能なのだ。

 真実・真理=仏性=無常。これを聞いて驚き疑うのは仏教の妨げとなる魔物であり、仏教以外を信ずる者となる。

 坐禅して真実・真理と一体となりましょう。

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