第217話 仏性その六十一 小量の愚見

 「今以現自身得度者こんいげんじしんとくどしゃ即現自身而為説法そくげんじしんにせっぽう(今、自身を現ずるを以て得度すべき者には、即ち自身を現じて而も為に法を説く)なり、これ仏性なり。さらに或現長法身わくげんちょうほっしん或現短法身わくげんたんほっしんなるべし。常聖じょうしょうこれ無常なり、常凡じょうぼんこれ無常なり。常凡聖じょうぼんしょうならんは、仏性なるべからず。小量の愚見なるべし、測度しきたく管見かんけんなるべし。仏者小量身也ぶっしゃしょうりょうしんや性者小量作也しょうしゃしょうりょうさや。このゆゑに六祖道取す、「無常者仏性也(無常は仏性なり)」。」

 「今以現自身得度者こんいげんじしんとくどしゃ即現自身而為説法そくげんじしんにせっぽう」(法華経、観世音普門品かんぜおんふもんぼんからの発想)今自分の身で真実・真理を得る者は自分の身を現して人々を救うために説法する、これが仏性である。さらにあるいは身体の大きな者、身体の小さな者様々ありのままである。聖人は常に聖人であるとしても無常であり固定したものではない。凡人は常に凡人であるとしても無常であり固定したものではない。常に聖人で固定、常に凡人で固定であるならば仏性ではない。このように固定したものと考えるならば考えの足らない愚かな見方であり、頭の中で推し測った管を通して見るような狭い見方である。そのようなことでは仏がちっぽけなものになってしまい、性もちっぽけなものとなってしまう。だから六祖は無常=仏性と言ったのである。

 人間はそれぞれの身心ありのままに仏なのだ。本来、仏なのだ。だから坐禅してありのままに生きることが真実・真理を実現・実証することであり、それは見方を変えれば説法しているということになる。

 無常=仏性=何ものかとしか言いようのない真実・真理だから固定したものではない。人間は聖人と言われようが凡人と言われようが固定されたものではない。こうだと固定した瞬間にそれは真実・真理ではなくなる。「常凡聖は仏性ならんは、仏性なるべからず」なのだ。

 固定した観念は愚見であり、細い管から覗いているような狭い視野に囚われたものなのだ。

 しかし今の世の中、「私は正しい」という小量の愚見に囚われ、管から覗き見ているような人間に溢れている。政治家とか報道機関とかその典型だ。

 坐禅して小量の愚見、管見を振り捨てましょう。

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