第216話 仏性その六十 無常=真実・真理

 「六祖示門人行昌云、「無常者即仏性也、有常者即善悪一切諸法分別心也」。(六祖、門人行昌もんじんぎょうしょうに示して云く、「無常は即ち仏性なり、有常は即ち善悪一切諸法分別心なり」。)

 いはゆる六祖道の無常は、外道二乗等の測度しきたくにあらず。二乗外道の鼻祖鼻末びそびまつ、それ無常なりといふとも、かれら窮尽ぐうじんすべからざるなり。しかあれば、無常のみづから無常を説著せつじゃ行著ぎょうじゃ証著しょうじゃせんは、みな無常なるべし。」

 六祖大鑑慧能禅師が門人の行昌に言ったことには「無常は仏性である、有常は善悪その他すべての物事を分別しようとすることである」。

 いわゆる六祖の言う無常は、仏教以外の考えを信じる者や環境に従って仏教を学ぼうとか頭で考えて仏教を学ぼうとする者が推し量ることができるものではない。これらの者たちの始まりや今に至るまで、それらの者が無常であると言ったとしても、彼らが真の意味を極めることはできない。そういうことであるから無常とは無常自らが無常を説き、行動し、実証しようとすることがすべて無常なのである。

 ここから無常についての解説が始まる。

 無常というと世の中は移ろいやすく儚いものというようなイメージがある。しかし無常はそういう感傷的な感覚的なことではないということが説かれていく。

 無常=仏性であると説かれている。仏性=何ものかとしか言いようのない真実・真理=大宇宙の真実・真理だから無常=真実・真理となる。

 ありのままの世界は常に変化している。人間の身体にしても常に血液は滞ることなく全身を流れ、細胞は誕生し成長し死滅し続けている。身体は瞬間瞬間変化しているのだ。大気も一瞬たりとも不変ということはない。常に流動している。海も川も動き続けている。つまり無常だ。無常とは宇宙のあり様を言っているのだ。だから無常=真実・真理ということになる。

 有情とは人間が頭の中で捻りだす観念だ。観念だから「これはこういうこと」と固定したものになる。これは善だ、これは悪だなどあれこれ分別し観念的に固定していく。しかしこれはその時その場所に限定されたものであって真実・真理ではない。思想の歴史をみればそれはよくわかる。日本が敗戦でこれまで善とされていたものが一気に悪となった訳だ。過去善いものとされていたものが今は嘲笑されるものになっていることはたくさんある。今嘲笑していることもいつ禅に変わるか知れたものではない。

 頭の中で無常をいくらこねくり回しても意味は無い。

 坐禅すればその瞬間、真実・真理と一体となる。無常の状態となる。

 「無常のみづから無常を説著せつじゃ行著ぎょうじゃ証著しょうじゃせんは、みな無常なるべし。」とは坐禅している状態の表現だ。坐禅した身心は大宇宙の真実・真理だから、真実・真理を説き、行動(坐禅も坐禅しているという行動だ)し、真実・真理を実現・実証しているのだ。

 坐禅しましょう。

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