第215話 仏性その五十九 諸無の無は、無仏性の無に学すべし

 「しかあれば、諸無の無は、無仏性の無に学すべし。六祖の道取する「人有南北、仏性無南北」の道、ひさしく再三撈摝ろうろくすべし、まさに撈波子ろうぼすに力量あるべきなり。六祖の道取する「人有南北、仏性無南北」の道、しづかに拈放ねんぽうすべし。おろかなるやからおもはくは、人間には質礙ぜつげすれば南北あれども、仏性は虚融こゆうにして南北の論におよばずと、六祖は道取せりけるかと推度すいたくするは、無分の愚蒙ぐもうなるべし。この邪解じゃげ抛却ほうきゃして、直須勤学じきしゅごんがくすべし。」

 そういうことであるから色々な無があるが無については無仏性の無を学ぶべきである。六祖の言う「人有南北、仏性無南北」の言葉を何回もすくい取るように考えなければいけない。そのようにすくい取るための行動(坐禅)に力量が備わっているのである。六祖の言う「人有南北、仏性無南北」の言葉を静かに落ち着いてつかんだり手放したりしなければいけない。愚かな者が思うことには、人間は物質としての肉体という形を持って生きているから南北という方向があるけれども、仏性と言うのは実体がなく物質の制約を受けないから南北を問題にしないのだと六祖が言ったと推測するのは何もわかっていない愚かなことである。このような間違った考えを放り捨てて真っ直ぐに一生懸命に学びなさい(坐禅しなさい)。

 仏性というふわふわしたものが存在するのではない。仏性=森羅万象だ。仏性は何ものかとしか言いようのない真実・真理だ。我々も何ものかとしか言いようのない真実・真理なのだ。

 南北というのは人間が生きていくために設定した名称だ。我々は現実世界で生きていくとき南北というような具体的なものを使用する。しかしこれは本質ではない。本質は何ものかとしか言いようのないものなのだ。このとき南だ、北だというようなことは関係ない。

 坐禅している時大宇宙の中にぽつねんと自分が存在することが実感できる。東西南北などどうでもいい。そういう方向という観念を超越して自分が存在していることが感得できる。何ものかとしか言いようのない真実・真理が存在することが感得できる。

 毎日毎日坐禅を続けることが「ひさしく再三撈摝ろうろく」することであり、坐禅が「撈波子ろうぼすに力量ある」ことであり、「直須勤学じきしゅごんがく」なのだ。

 坐禅しましょう。

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