第213話  仏性その五十七 有=無

 「四祖五祖の道取する無仏性の道得どうて、はるかに罣礙けいげの力量ある一隅をうけて、迦葉仏かしょうぶつおよび釈迦牟尼仏しゃかむにぶつ等の諸仏は、作仏さぶつ転法てんぽうするに、「悉有仏性」と道取する力量あるなり。悉有の有、なんぞ無々のむむのむ嗣法しほうせざらん。しかあれば、無仏性の語、はるかに四祖五祖の室よりきこゆるなり。このとき、六祖その人ならば、この無仏性の語を功夫すべきなり。」

 四祖五祖の言う無仏性という言葉は、はるかに真実・真理を言い表す力があるのでその一端に触れて迦葉仏(釈尊以前の仏。過去七仏の一人)、釈尊などの仏は仏となり説法するのだが、そこに悉有=仏性と言えるだけの力量が有るのである。悉有というときの有が無無の無つまり何ものとしか言いようのない真実・真理を徹底したものから法を受け継がないということがあろうか。そういうことであるから無仏性と言う言葉ははるかに四祖五祖の部屋から聞こえてくるのである。このとき、六祖がそれだけの人物であるならばこの無仏性と言う言葉をよく考えるべきである。

 悉有つまりすべての存在森羅万象は真実・真理だ。何ものかとしか言いようのない真実・真理だ。つまり無だ。悉有=無=何ものかとしか言いようのない真実・真理。この図式が重要だ。

 無を「無い」としてはいけない。無=仏性=何ものかとしか言いようのない真実・真理だ。

 人間の頭の中、観念で有とか無とかこねくり回すのは無駄だ。妄想に憑りつかれるだけだ。有るとか無いとかいう観念を超越したところに真実・真理はある。そして坐禅した瞬間にそこに到達できるのだ。

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