第211話 仏性その五十五 坐禅して無仏性となる

 「しるべし、無仏性の道取聞取どうしゅもんしゅ、これ作仏の直道じきどうなりといふことを。しかあれば、無仏性の正当恁麼時しょうとういんもじすなはち作仏なり。無仏性いまだ見聞せず、道取せざるは、いまだ作仏せざるなり。」

 知らなければいけない。「無仏性」と言ったり聞いたりする、これが仏という状態に直結するみちであるということを。そういうことであるから無仏性つまり何ものかとしか言いようのない真実・真理である仏性というまさにそのようなとき仏となっているのである。無仏性をまだ見たり見たり言ったりしていないのは、いまだ仏にはなっていないのである。

 繰り返すが、「無」とは何ものかとしか言いようのない真実・真理だと私は思っている。真実・真理は存在するけれど「こういうものです」ということはできない。有るとか無いとかを問題にする対象ではない。だから敢えて表現すれば「無」となるのだ。

 師について教えを受ける、問答をする。これは重要だろう。

 一方で私は毎日坐禅を続けること、このことが「無仏性の道取聞取」していることではないかと考えている。坐禅した身心は真実・真理と一体となっている。それは「無仏性の正当恁麼時」なのではないかと思う。何ものかとしか言いようのない真実・真理と一体となっている、仏性となっている、それが坐禅した身心なのだ。そう思っている。

 だから坐禅しなければいけない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る