第210話 仏性その五十四 一切衆生=無仏性

 「見仏聞法けんぶつもんぽうの最初に、難得難聞なんてなんもんなるは、衆生無仏性なり。或従知識わくじゅうちしき或従経巻わくじゅうきょうがんするに、きくことのよろこぶべきは衆生無仏性なり。一切衆生無仏性を、見聞覚知けんもんかくち参飽さんぽうせざるものは、仏性いまだ見聞覚知せざるなり。六祖もはら作仏をもとむるに、五祖よく六祖を作仏せしむるに、他の道取なし、善巧ぜんぎょうなし。ただ嶺南人無仏性といふ。」

 仏道の師に会って仏法を聞くときの最初に得るのが難しく聞くことが難しいのは、衆生・無仏性である。指導者に従い、経典を読むときに聞いて喜ぶべきは衆生・無仏性である。一切衆生・無仏性を見たり聞いたり理解するのを十分な上にも十分に行っていないものは、仏性を見たり聞いたり理解したりできていないのである。六祖がひたすら作仏(仏となる)のを求めるのに、五祖がそれを助けるために、他の言い方をせず、方便を使うことはなかった。ただ嶺南人・無仏性と言うのである。

 衆生無仏性は衆生に仏性が無いと読むのではない。衆生=無仏性だ。無仏性とは何ものかとしか言いようのない真実・真理である仏としての性質、本質ということだと思っている。衆生つまり生きとし生けるものはすべて無仏性、何ものかとしか言いようのない真実・真理である仏としての性質、本質という素晴らしいものなのだ。

 坐禅すればそのことを全身心で感得できる。坐禅を毎日毎日ずっと続けることでそのことが身心にしみわたる。身心が大宇宙そのものとなる。参飽するのだ。

 一切衆生生きとし生けるものは無仏性だ。何ものかとしか言いようのない真実・真理である仏としての性質、本質そのものなのだ。そしてそれは特別なことではない。人間本来の姿なのだ。

 坐禅して本来の姿に立ち戻りましょう。

 

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