第209話 仏性その五十三 成仏しましょう

 「衆生有仏性しゅじょううぶっしょう衆生無仏性しゅじょうむぶっしょうと道取する、この道理なり。成仏以来に具足する法なりと参学する正的しょうてきなり。かくのごとく学せざるは仏法にあらざるべし。かくのごとく学せずば、仏法あへて今日にいたるべからず。もしこの道理あきらめざるには、成仏をあきらめず、見聞せざるなり。このゆゑに、五祖は向他道こうたどうするに、嶺南人無仏性れいなんじんむぶっしょう為道いどうするなり。」

 衆生有仏性、衆生無仏性というのは、仏性は仏となった時(坐禅した時)に実現・実証されるという道理を言っているのである。仏となった時(坐禅した時)以来に発現する法であると学ぶまさに正解なことである。このように学ばないのならばそれは仏法ではない。このように学ばないのならば仏法は絶対に現在まで残って伝わることはないのである。もしこの道理をはっきりと理解しないのであれば、仏となること(成仏)をはっきり理解せず、見聞きもしないのである。こういうことであるから五祖は他に向かって言うときに「嶺南人無仏性」と教えてあげているのである。

 仏性が有るとか無いとかを頭の中で観念的に考えても、言語でいじくりまわしても意味は無い。無駄である。変な妄想の世界に紛れ込むだけだからやめた方がよろしい。

 人間は仏となれる。というより本来仏なのだ。しかし利得、地位、名誉、金銭などの欲望などのために本来の姿を見失っているだけだ。なんとなく続けている習慣も本来の姿を見失う原因になるから要注意だ。だから本来の姿を取り戻すために坐禅をする。坐禅した瞬間に本来の面目となる。本来の仏となる。

 このことがここではあらためて強調されている。

 嶺南人無仏性とは何か。それは坐禅した身心で感得することだ。坐禅すると何ものかとしか言いようのない真実・真理の存在を感得することができる。そして自分のこの身心が真実・真理の状態、真実・真理と一体となっていることが感得できる。その身心ならば直観が働き真実・真理に従って行動することができる。いや、真実・真理に従って行動することしかできない。

 世の中を眺めれば、訳のわからない理屈で頭が一杯とんでもないことを言ったりやったりしている人間が溢れている。知識とか情報とか論理だとかの観念に振り回され妄想の世界に取り込まれてしまっている。日本の与野党の政治家もそうだし、習近平とかプーチンとか金正恩だとか妄想ここに極まれりというような輩もいる。

 怖い怖い。坐禅しない限り真実・真理は実現しない。でもこの人たちは坐禅などしないだろう。人類はどこに行ってしまうんだろうか。

 一人でも多くの人が坐禅して欲しいと思う。坐禅すればその瞬間仏となる。成仏しましょう。

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