第208話 仏性その五十二 経典を読んでも仏性はわからない

 「おほよそ仏性の道理、あきらむる先達せんだちすくなし。諸阿笈摩教しょあぎゅうまきょうおよび経論師きょうろんじのしるべきにあらず。仏祖の児孫じそんのみ単伝するなり。仏性の道理は、仏性は成仏じょうぶつよりさきに具足せるにあらず、成仏よりのちに具足するなり。仏性かならず成仏と同参するなり。この道理、よくよく参究功夫さんきゅうくふうすべし。三二十年も功夫参学すべし。十聖三賢じっしょうさんげんのあきらむるところにあらず。」

 おおよそ仏性の道理をあきらかにして理解している過去の人々は少ない。阿含経などの原始経典や経典を読んで仏教を学ぼうとする人間の知ることができるところではない。釈尊の直系の人々のみに伝わっているのである。仏性とはどういうものかという道理とは、仏性は仏となる前(坐禅する前)に実現・実証するのではない。仏となってから(坐禅した瞬間から)実現・実証するのである。仏性と成仏(坐禅した身心)は同時に発現するのだ。この道理をよくよく何回も考え追求しなければいけない。三十年二十年と時間をかけて取り組まなければいけない。菩薩に十聖三賢の位があるがそのような人々が理解できるところのものではない。

 成仏というと死ぬことのように聞こえるけれど、文字通り仏に成るということ。仏に成るというのは坐禅するということ。坐禅した瞬間に仏となるのだ。仏性が実現・実証するのだ。

 坐禅しなければ仏教はわからない。どんなに経典を読んでも不可能だ。坐禅さえしたら良いのだ。参究功夫とは坐禅だ。坐禅を毎日毎日ずっと続ける。これがすべてだ。坐禅せずには仏教は絶対にわからない。坐禅して正法眼蔵を読んでいればいいのだ。

 経典をたくさん読んでわかったような気になっている人間がいるかもしれないが、坐禅していないならそれは妄想に過ぎない。

 坐禅しましょう。

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