第207話 仏性その五十一 嶺南人=無仏性

 「この「嶺南人無仏性」といふ、嶺南人は仏性なしといふにあらず、嶺南人は仏性ありといふにあらず、「嶺南人、無仏性」となり。「いかにしてか作仏せん」といふは、いかなる作仏をか期するといふなり。」

 この「嶺南人無仏性」というのは嶺南人には仏性がないと言っているのではないし、嶺南人には仏性があると言っているのでもない。「嶺南人=無仏性」だと言っているのである。「いかにしてか作仏せん」というのはどのような仏を期待しているのかと言っているのである。

 「嶺南人無仏性」という言葉は仏性が無いとか有るとか有無を言っているのではないと道元禅師ははっきり示してくださっている。

 嶺南人=無仏性というのは、嶺南人であるお前さんは何ものとしか言いようのない真実・真理の存在つまり仏だということなのだ。その仏としてどのようにこの瞬間瞬間を真実・真理に生きるか、生きたいか、そのことを「いかにしてか作仏せん」と言っているのだ。

 我々は本来真実・真理の存在なのだ。その本来の姿を見失ってしまっているのだ。だから坐禅して「いかにしてか作仏せん」という状態にならなければいけない。

 いかにして真実・真理の存在として生きるか。それは坐禅が教えてくれるのだ。

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