第205話 仏性その四十九 空と無について
空、無。仏教ではよく出てくる。
何回も書いているけれど私は仏教を学問的に勉強していない。僧侶に教えてもらったこともない。ただ正法眼蔵その他の道元禅師の著作を読んで坐禅しているだけだ。もちろん澤木興道氏の提唱録、西嶋和夫氏の提唱録、水野弥穂子氏の現代語訳なども読ませてもらってはいる。
けどここに書いていることは自分がこうじゃないかと思ったことだ。
私の書いていることは体系立ってはいない。そういう風に理解しようとしていないから。自分が生きている中でこうじゃないかと思えることを書いている。
私は空や無を明確に定義はできていない。
今回は空、無について思っていることを書いてみる。
空というのは今この瞬間の世界じゃないかと思っている。今この瞬間の世界は「こういうものです」と言葉では説明できない。しかし世界は実在している。こういうものと言えないけれど空間として森羅万象を含んで存在する。すべてが存在する。すべてが存在して数量として認識などできない。であれば「空」と同じことだ。すべてがあるが認識しつくすことはできない=空(なにもない)とは考えられないだろうか。私はこのように思っている。
無。大宇宙の真実・真理は存在する。それは絶対的な事実だ。しかし「これが真実・真理ですよ」と提示することはできない。しかし坐禅した身心は真実・真理の存在を感得する。それは言葉にすると「何ものかとしか言いようのないもの」明確に「このように有る」とは言えないもの。しかし存在する。じゃ言葉で何と言う?無としか言いようがない。そう思っている。
仏教を学問的に学んでいる人から見れば噴飯ものだろう。
しかし私はこのように考え瞬間瞬間を生きている。正法眼蔵を読んで坐禅して生きている。だからこれでいい。そう思っている。
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