第203話 仏性その四十七 真実・真理=仏性=空=無

 「五祖いはく、「仏性空故ぶっしょうくうこ所以言無しょいごんむ」。

 あきらかに道取す、空は無にあらず。仏性空を道取するに、半斤はんきんといはず、八両といはず、無と言取するなり。空なるゆゑに空といはず、無なるゆゑに無といはず、仏性空くうなるゆゑにといふ。しかあれば、無の片々は空を道取する標榜ひょうぼうなり、空は無を道取する力量なり。」

 五祖がおっしゃたのは「仏性は空であるから、それで無といったのですね」。

 明らかに言っているのである。空は無ではないと。仏性空を言い表そうとするのに、重さの単位である半斤と言わず、八両と言わず(半斤と八両は同じ重さだそうだ)、無と言ったのである。空であるから空と言わず、無であるから無と言わず、仏性空であるから無と言ったのである。そういうことであるから無という一つ一つの言葉は空を言い表す目じるしのようなものであり、空は無を言葉で言い表す力量を示しているのである。

 仏教には、空や無という言葉がたくさん出てくる。学問的には空の解釈があり、無の解釈があるのだろう。私は学問的な解釈のことはわからない。

 私は次のように思っている。

 この大宇宙の真実・真理は人間の言葉では言い表せない。言い表すことはできないが存在する。絶対的に存在する。今この瞬間の事実、すべての存在が真実・真理である。真実・真理=仏性=空。空としか言いようがない。空というのは「空っぽ」ということじゃないと思っている。いまこの空間、今この瞬間のありのままが真実・真理だそれを空と言ってるんじゃなかろうか。そしてその空は具体的に「こういうものです」と示すことができないから「無」としか言いようがない。無とは何もかとしか言いようのない真実・真理だ。

 となると真実・真理=仏性=空=無ということになる。

 この大宇宙は単純なものではない。ありとあらゆる様相を有している。そして真実・真理が根底にある。それを敢えて言葉にするならば「空」であり「無」なのだろう。

 仏性が空であるとか、無とは何かを学問として勉強したい人はそれでいいとは思う。

 けれど私は生きるために正法眼蔵を読み坐禅して仏教を学んでいる。空や無の字句を頭の中でこねくり回している暇はないのだ。

 坐禅した瞬間に空や無は身心が感得する。真実・真理と一体となった身心で感得できる。この大宇宙を敢えて言葉にすれば空であり無なのだろう。そして我々は本来大宇宙そのもの、真実・真理なのだ。坐禅して本来に立ち還ろう。

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