第202話 仏性その四十六 無仏性に精進するとは?

 「しかあればすなはち、無仏性の道、はるかに四祖の祖室よりきこゆるものなり。黄梅おうばい見聞けんもんし、趙州じょうしゅう流通るづうし、大潙だいい挙揚こようす。無仏性の道、かならず精進すべし、趑趄しそすることなかれ。無仏性たどりぬべしといへども、なる標準あり、にょなる時節あり、なる投機あり、周なる同生どうしょうあり、直趣じきしゅなり。」

 そういうことであるから、無仏性という言葉は四祖大医道信禅師の部屋から教えが伝わったのである。それが黄梅山の五祖大満弘忍禅師が見聞きし、趙州従諗じょうしゅうじゅうしん禅師に伝わり、潙山霊祐いさんれいゆう禅師が取り上げて説法された。無仏性という言葉を必ずしっかり学ばなければいけない。まごまごしてはいけない。無仏性という言葉の判断に迷うかもしれないけれども、何ものかとしか言いようのない真実・真理という標準となるものがあり、お前さんという現実の存在という瞬間もあり、今この瞬間のあり様という示し方もあり、周という現実の姓となっていることもあり、今この瞬間の真実・真理に直接つながっているのである。

 無仏性という言葉を頭の中で脳味噌で観念的にいじくっていると、無いとか有るとかうろうろおろおろしてしまう。

 「精進すべし」と道元禅師がおっしゃっているのは「坐禅すべし」ということだ。必ず坐禅しなければいけない。坐禅しようかどうかと戸惑ってはいけない。坐禅するしかないのだ。

 坐禅した瞬間に「何」「汝」「是」「周」というものと身心が一続きになる。身心で感得することができる。真実・真理と一体、「直趣」となるのだ。

 むーむーと頭の中で唸っても「無仏性」は絶対にわからない。無仏性であり、有仏性であり、仏性でもあるのだろう。

 坐禅の内容とはこういうものだ。真実・真理とこの身心が一体となった時、「無仏性」は言葉ではなくなる。この身心全体で感得する何ものかとなる。その何ものかが真実・真理である。

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