第199話 仏性その四十三 現実を生きる

 「しかあればすなはちなり、仏なりといへども、脱落しきたり、透脱とうとつしきたるに、かならず姓なり。その姓すなはち周なり。しかあれども、父にうけず祖にうけず、母氏もし相似そうじならず、傍観に斉肩ならんや。」

 そういうことであるから、是=今この瞬間の有りようは、「何」=何ものかとしか言いようのない真実真理であり、仏なのであるけれども、そのようなことも抜け落ち、通り抜けたところにあるのは姓である。この姓はこの場合は周(五祖が生まれた家の姓)である。そうではあるけれども、これは父から受けたものではなく、先祖代々伝わったものではなく、母方のものに相似なものでもなく、他に比較するようなものではないのだ。

 是、何、仏、仏性について言葉の上では、理論としてはこれまで述べられて着たとおりだ。しかし、それは理屈である。重要ではあるが理屈である。我々は理屈で生きるのではない。現実を生きるのである。その時五祖の姓は周なのである。

 仏教は観念論、抽象論ではない。今この瞬間の現実をどう生きるかを教えるものだ。理屈に走るのを諫めておられる箇所だと思っている。

 坐禅して現実を生きましょう。坐禅すれば真実・真理に従って現実を生きることができる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る