第195話 仏性その三十八 われわれは何ものかなのである

 「しかあればすなはち、祖師の道取を参究するに、「四祖いはく汝何性にょかしょう」は、その宗旨そうしあり。むかしは何国人かこくじんじんあり、何姓かしょうしょうあり。なんぢは何姓かしょう為説いせつするなり。たとへば吾亦如是ごやくにょぜ汝亦如是にょやくにょぜと道取するがごとし。」

 (前回のような問答があったので)即ち、四祖の言ったこととを考えてみるに、四祖の言う「汝何性」には重要な意味がある。かつては「何国人」だと答えた人がいたし、「何姓」と答えた人もいた。お前さんは「何姓」だと説いてあげているのだ。例えば六祖が南嶽禅師に言った「吾亦如是ごやくにょぜ汝亦如是にょやくにょぜ」と同じである。(自分もまたこれこれであるし、お前もまたこれこれである)

 我々はそれぞれの国にいてそれぞれ名前がある。しかし我々の本質、大宇宙の一部である我々の本当のところは「何」としかいえないものだ。言葉では言い表せないものだ。言葉では言い表せないが我々は現実の世界を生きている。

 四祖はお前の姓は何かと質問したのではない。「お前は言葉では言い表せない「何」というものなのだ」と言ったのだ。

 我々は宇宙そのものだ。だからその本質は人間の言葉では表せない。それだけ大きく奥深い。それが本来の人間の姿なのだ。名前とか国などという小さな枷に囚われてはいけない。

 「吾亦如是ごやくにょぜ汝亦如是にょやくにょぜ」は自分もお前も真実・真理だと言っているのだ。

 道元禅師の解説は本質を捉え明解痛快だ。雄大ですらある。

 我々は言葉では言い表せない何ものかなのだ。

 そのことは坐禅すれば体得、感得できる。

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