第179話 仏性その二十二 因縁とは何か?

 「仏言、「欲知仏性義よくちぶっしょうぎ当観時節因縁とうかんじせついんねん時節若至じせつにゃくし仏性現前ぶっしょうげんぜん」。

(仏ののたまわく、仏性の義を知らんとおもはば、まさに時節因縁を観ずべし。時節若し至れば、仏性現前す。)

 いま「仏性義をしらんとおもはば」といふは、たゞ知のみにあらず、行ぜんとおもはゞ、証せんとおもはゞ、とかんとおもはゞとも、わすれんとおもはゞともいふなり。」

 釈尊がおっしゃった。「仏性とは何かを知りたいと思うならまさにこの時この瞬間の有りようをよく見なさい。この瞬間と身心が一体となれば仏性はありのままに現れる」。

 いまここで「仏性義をしらんとおもはば」というのは、ただ知るということだけではない。行動しようと思うならば、体験して実現・実証しようと思うならば、説明しようと思うならばとも、忘れようと思うならばとも言うのである。

 因縁という言葉は色々な意味で使われている。「因縁をつける」は難癖をつけて喧嘩を売る、脅すみたいな感じだ。「あなたの不幸は過去の因縁が原因です」とか言って金を巻き上げようとする奴らもいる。

 前にも書いたが、私は仏教を学問的に学んだことはないし、宗門で僧侶から指導を受けたこともない。だから因縁について学問的、宗門的な解釈は知らない。

 ただ正法眼蔵を読んできて、岩波文庫の水野弥穂子氏の脚注とか、澤木興道氏、西嶋和夫氏の提唱録とか、道元禅師全集の水野弥穂子氏の訳などを読んで、坐禅している中で「因縁」というものをどうとらえたらいいのか考えては来た。

 上で「有りよう」としてみたが、因縁というのは因も縁も原因という意味らしい。様々な原因によって現在今この瞬間の状況が生まれている。なので因縁を有りようとしてみた。

 時節因縁は今この瞬間の状況、有りようとしてみた。

 仏教は頭の中で考えるだけの観念論、抽象論ではない。今この瞬間をどう生きるかを教えるものだ。だから仏性を知るということは、体験する、行動する、説くという身心のあらゆる動きであり、必死にこの瞬間を生きている時は仏性がどうだこうだなどということは忘れてしまっているというのも生きている事実だ。

 このことは坐禅した身心ならば身心に染み込むように感得することができる。体得することができるのだ。

 

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