第180話 仏性その二十三 日常生活にしか真理はない

 「かの説、行、証、もうさく不錯ふさく等も、しかしながら時節の因縁なり。時節の因縁を観ずるには、時節の因縁をもて観ずるなり、払子ほっす挂杖しゅじょう等をもて相観そうかんするなり。さらに有漏智うろち無漏智むろち、本覚・始覚、無覚・正覚等の智をもちゐるには観ぜられざるなり。」

 説く、行動する、実証する、忘れる、間違える、間違えない等もまったくのところその瞬間の有りようなのだ。その瞬間の有りようがどういうものかわかろうとするなら、この瞬間の有りようによってわかるのだ。払子や挂杖のように僧が日常使うものによってわかるのである。さらに有漏智うろち無漏智むろちつまり煩悩のある智慧・煩悩の無い知恵だとか、本からある智慧・今獲得した智慧だとか、智慧は無いとか正しい知恵だとか色々智慧について言われているけれどもそのような智慧によってわかるものではないのである。

 仏教は現実論、実践論だ。今この瞬間を生きる中で仏教を学び、仏教によって生きていく。坐禅し坐禅した身心で大宇宙の真実・真理と一体となって生きていくのだ。だから智慧について観念的、抽象的な理屈をひね繰り回しても意味は無い。この日常生活の中で行動して行く中で真実・真理を実現・実証するのだ。僧が日常生活の中で使う払子ほっす挂杖しゅじょうを具体例として示しておられる。

 仏教は日常生活から遊離した観念論ではない。

 我々はこの現実、日常生活を生きている。この中に真実・真理が無ければどこにあるというのか。今ここにしかないのだ。他にあるはずがない。

 毎日坐禅することにより日常生活が真実・真理となるのだ。

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