第178話 仏性その二十一 仏教は科学的なものなのです

 「たとひかくのごとく見解けんげすとも、種子および花果、ともに条々じょうじょう赤心せきしんなりと参究すべし。果裏に種子あり、種子みえざれども根茎こんきょう等を生ず。あつめざれどもそこばくの枝条大囲しじょうだいいとなれる、内外ないげの論にあらず、古今の時に不空ふくうなり。しかあれば、たとひ凡夫の見解けんげに一任すとも、根茎枝葉こんきょうしようみな同生どうしょうし同死し、同悉有なる仏性なるべし。」

 たとえこのように(仏性という種子があって芽が出て育っていく)考えたとしても、種子も花も果実もみなそれぞれにありのままの事実だと坐禅して究めなさい。果実の中に種子があり、種子の中に見えてはいないけれど種子からは根や茎が生じてくる。外から集めてくるわけではないけれども多くの枝や太い幹となる。これは種子の内側外側の話ではなく、過去から現在に至るまでのありのままの事実である。そういうことであるから、たとえ凡夫の考え方を受け入れるにしても、根も茎も枝も葉も同じ生であり死であり同じ存在であるから仏性なのである。

 その瞬間その瞬間のありのままの事実が仏性なのだ。仏性であるからありのままの事実が尊いのだ。

 しかし改めて思うけれど道元禅師という人の洞察力というか物事の本質を見極める力は凄いと思う。ここの種子に関する記述など科学的そのものだと思う。そしてまた正法眼蔵を読んできて仏教は科学的なものだと思っている。

 神秘的な観念論ではない。抽象論ではない。

 この大宇宙のありなままの姿をありのままに捉える。人間は本来大宇宙そのものなのだ。大宇宙の秩序そのもので生きているものなのだ。

 その本来の姿を見失って大混乱に陥っているのが今の世の中なのだ。

 もう一度書く。仏教は科学的なのものです。神秘的な言い回しや、業だとか因縁だとか(本来の因縁ではなく過去の祟りみたいな意味での因縁)言っているのは仏教じゃありません。気をつけましょう。

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