第176話 仏性その十九 坐禅の中身

 「悉有は百雑砕はくざっすいにあらず、悉有は一条鐵いちじょうてつにあらず。拈拳頭ねんけんとうなるがゆゑに大小にあらず。すでに仏性といふ、諸聖しょしょう斉肩せいけんなるべからず、仏性と斉肩すべからず。」

 悉有、大宇宙の全存在は細々なたくさんのものではない、悉有は一本の鉄ではない。こぶしを握るというような行動であるから大きい小さいとかいうものではない。既に悉有=仏性ということであり、そのことは仏と言われる人々と肩を並べているというようなことではないし、仏性と肩を並べるということでもない。

 悉有、大宇宙の全存在というものは抽象的に観念的に頭の中で捉える対象ではない。そのようなことをする意味はない。こぶしを握るというような現実世界で行う行動の中で悉有というものが身心でわかる。坐禅することでわかる。それは大小というような人間の尺度で測れるものではない。測ることではない。一切衆生=悉有=仏性ということが厳然としてある。ただそれだけのことだ。だから仏といわれる人々と肩を並べるなどということを考えること自体が見当違いだ。悉有=仏性なのだから肩を並べるというように2つに分けるものではない。

 ここのところは頭の中で言葉だけをいじくりまわしていると訳が分からなくなってしまう。

 改めてはっきり言う。正法眼蔵は坐禅した身心でなければ読むことはできない。坐禅して大宇宙の真実・真理と一体となった身心であればここに書いてあることは脳味噌ではなく身心全体でまったくそのとおりと受け止めることができる。身心に染み込んでくる。これは絶対の事実なのだ。

 正法眼蔵は思想書ではない、哲学書ではない。仏教により人々を救うため布教のために道元禅師がお書きになったものである。道元禅師は正法眼蔵の中で坐禅こそが坐禅だけが真実・真理に到達する唯一の方法だとお書きになっている。坐禅して正法眼蔵を読めばそれで完璧である。他に何もいらない。瞬間瞬間を真実・真理に従って生きていくことができる。瞬間瞬間に智慧が身心を動かす。

 澤木興道氏は「正法眼蔵は坐禅の中身を書いたものだ」とおっしゃっていたと聞いた。そのとおりだと思う。

 坐禅すればわかる。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る