第173話 仏性その十六 肩書・称号に騙されるな

 「往々に古老先徳ころうせんとく、あるいは西天さいてん往還おうげんし、あるいは人天にんでん化導けどうする、漢唐より宋朝にいたるまで、稲麻竹葦とうまちくいのごとくなる、おほく風火の動著どうじゃを仏性の知覚とおもへる、あはれむべし、学道転疎がくどうてんそなるによりて、いまの失誤あり。」

 往々にして古老とか先徳といわれる人々があるいはインドまで行ってきたり、あるいは人間界や天上界を仏道で教化したりしている。その数は稲や麻や竹や葦のようにたくさんいるけれども、その多くが物質の変化・動きそしてそれを感知することを仏性が知覚するのだと思っている。憐れなことである。仏道を学ぶことがますます疎かなためにこのような誤りを起こすのである。

 道元禅師は痛烈、辛辣だ。世の中で古老とか先徳などと尊称で呼ばれていて指導的立場にいても真の仏道・仏教がわかっていない人間が多く、それは修行が疎かだからだとおっしゃっている。

 世の中は肩書・称号に惑わされる。他人もそうだが本人も惑わされ、真の実力がないのに「凄い」と思われたり思ったりしている。学道転疎なるによりて、だ。

 風火つまり物質の変化・動きおよびそれを感知するのは仏性というものがあってそれが感知するのだなどと考えるのは間違い(失誤)なのだ。そんなことをまことしやかに語る人間に騙されてはいけない。

 繰り返すが、一切衆生=悉有=仏性なのだ。我々の存在、大宇宙の全存在、ありのままの姿が仏性なのである。それがわからなくては話にならない。

 今の世の中でも、言語を弄してまことしやかな言説を吐き散らかしている人間がたくさんいる。そしてそういう人間が肩書・称号を持つ。その肩書に惑わされて言説が正しいのかどうかという一番肝心なところが疎かになってしまう。そして例え間違っていたとしてもその言説に惑わされ誤った世界へ迷い込んでしまう。そんなことばかりに見える。

 真実・真理を語っているか、真実・真理に従った行動ができているかそれだけが人間の価値だ。

 真実・真理に従っているかどうかは坐禅した身心ならば瞬間にわかる。

 坐禅しなければいけない。

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