第172話 仏性その十五 ありのままの姿が仏性だ

 「たれかいふし、仏性に覚知覚了かくちかくりょうありと。覚者知者はたとひ諸仏なりとも、仏性は覚知覚了にあらざるなり。いはんや諸仏を覚者知者といふ覚知は、なんだちが云云うんぬん邪解じゃげを覚知とせず、風火の動静どうじょうを覚知とするにあらず、ただ一両の仏面祖面、これ覚知なり。」

 誰が言ったろうか、仏性にものを知ったり理解したりすることがあるなどと。ものを知ったり理解したりする人間がいてその人間がたとえ仏と言われる人々であったとしても、仏性はものを知ったり理解したりすることではないのでる。いわんや、仏と言われる人々を覚者、知者というときの覚知はお前方が云々いう所の邪な間違ったものを覚知と言うのではない。物質の動き、変化を覚知というのではない。ただ一つ二つという具体的な仏祖といわれる人の存在そのものが覚知なのである。

 一切衆生=悉有=仏性。だから、仏性が何かを感知して知り理解する能力だなどと考えてはいけない。人間の脳味噌で考え得るそんなちっぽけなものではない。脳味噌に囚われてはいけない。知識、情報、思想に囚われてはいけない。それらはあくまでも真実・真理に従って生きるために使うものに過ぎない。

 今の世の中、そこが逆転してはいないか。知識、情報、思想に振り回され「自分は知っている」「自分はこう思う」「自分は正しい」と七転八倒している。それではいつまでたっても苦しくて仕方ないだろう。

 仏性は「ただ一両の仏面祖面」でありそのことを身心で受け止めることが覚知なのだ。人間の本来の大宇宙における存在の有り様、その姿が仏性なのだ。ありのままの姿が仏性なのだ。

 そして坐禅した瞬間に我々の身心は仏性そのものとなるのだ。

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